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書の中の記事と自分が書いた記事

子供の頃は本が少なく、読むのは主に名家の名作で、ほとんどが古人の古書でした。外国の名著も読みましたが、翻訳された外国の本はいつも翻訳の癖が透けて見え、ただ流し読みするだけで、心に留まることはありませんでした。

古書を読むと、どうしても影響を受けてしまいます。私は文章を書く才能がなく、言葉を選んだり文を作ったりする際、無意識に他人の真似をしてしまいます。古人の言葉には時代特有の特徴が強く、「市井」や「小憩」などがあります。文章を書くときに使いたいと思うのですが、一方では現代人はこれらの言葉を使わなくなっていると感じ、正確さに欠け、「下沉」していないと思います。もう一方では、他人に自分が雅に見られることを恐れ、明らかに大衆の一人でありながら、わざとらしく、自分が文芸的だと思っているのが他人から見ると愚かに見えるのではないかと心配しています。

心の中で葛藤し、キーボードを叩くこともできません。考えたり消したりしているうちに、書きたいことをすっかり忘れてしまいました。心の中で残念に思い、次回は必ず一気に書き上げ、こんなことにエネルギーを使わないと誓いました。

しかし次回もまた同じことの繰り返しです。

名家の名著だけでなく、同級生が書いた良い文章も読みました。このような状況は主に中学校で見られました。小学校のレベルでは優劣がわからず、少なくとも私はそのような天才には出会いませんでした。中学校に入ると、他の人は言葉を選び、文を作り、物語を語る技術が身についてきました。作文の用紙には小さな字で美しく、流れるように自然に叙述され、言葉は正確で優雅でした。使われる書面語は得体が良く、ネット用語は妙趣に富んでいました。私はどうやっても真似できませんでした。

中学校の作文の風潮はすぐに記述文から議論文へと移りました。ある時、私の議論文が非常に高い点数を取り、先生に褒められ、クラスで同級生たちに読まれました。それ以来、毎回議論文を書くことになり、他の人に見抜かれるのが怖く、また高得点が取れないのが怖かったです。

確かに、記述文が先生に選ばれて模範文として読まれたこともありました。その時は、ただ週記の宿題をこなすために書いたことしか覚えていませんが、ちょうど書きたいことがあったので、平易に叙述し、さっさと終わらせました。書き終わったら遊びに行きました。後で見返すと、言葉も美しく自然でした。
記述文はまだ書けると思います。
しかし試験会場に行くと、点数を考えたり、他の人が低い点数の文章をどう見るかを考えたりして、心の中で自由に書くことができなくなります。

中学校を卒業するまで、再びペンを取り、自分のことを書こうとしましたが、結果として頭の中は真っ白で、何から始めればいいのかわかりませんでした。下書きもせず、アウトラインも作らずに書くことはできなくなっていました。それで、試験教育が私の人生を台無しにしたと怒鳴りましたが、責任を分けると、自分も逃げられません。

今、大学を卒業してから、同級生が書いた良い文章を見たことがありません。他人の答案を手に取り、他人の文を楽しむことは、まるで自分がそのような文を書いているかのようです。心の中では、試験会場でこのような文章を書いたら、どのようにインスピレーションが湧き、どのように言葉を考え、どのように文章を考えたかを想像しています。読み終わった後は、やはり心虚で、結局これは私が書いた文章ではありません。頭の中のこの想像の記憶が、将来の自分を騙さないことを願っています。

ブログは私にとって新しいものではなく、何度も何かを書いて発表しようと思ったことがあります。しかし、普段の感慨を書き留めると、プライバシーが強すぎて、他人に笑われるのが怖いです。これらの文字を書いているのは深夜で、眠れずにいると、ちょうどこの文章が適していると思い、久しぶりにログインしていないサイトを探し出しました。

見ている友人には優しく接してほしいです。

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